林アメリーさん

林アメリーさん フランス・オートヴィエンヌ県スサック生まれ。1950年パリ エコール デュ オートクチュール・エリザ・ルモニエ洋裁学校卒業、同年クリスチャン・ディオール アトリエ・オートクチュール勤務。1957年クリスチャン・ディオール アトリエ副主任。1959年ギ・ラロッシュアトリエ副主任として移籍。1963年ギ・ラロッシュの日本橋三越アトリエ責任者として赴任。1970年結婚後、日本橋三越アトリエ退社。個人アトリエ活動を続ける。1980年頃から独学で、布によるアッサンブラージュ(ミシンによるつなぎ合わせ)を試みる。その後、タブロー(作品)として様々なニードルワークを作り続け、現在に至る。1997年出身地オートヴィエンヌ県スサック有志からの要請により、第1回「日本の着物展(着物の一生-子供から老年まで)約30点」を開催。1999年再び同県スサック有志からの要請により、「林アメリー パッチ・ワーク展」及び、同県パナゾール市の要請により第2回「日本の着物展(1930年代)約40点」を開催。2002年コレーズ県シャンブレー市の要請により第3回「日本の着物展(四季)約60点」を開催。2003年1月銀座三越「和のキルト展」に招待出品。同年2月横浜大倉山記念館ギャラリーにて「林アメリー・キルトとニードルワーク展」を開催、3200人の入場者を迎える。2004年7月オートヴィエンヌ県リラック・コンラン市の要請により第4回「日本の着物展(幸せのシンボル)約70点」を開催。

アメリーさんは生粋のフランス人。アメリーさんは戦争中に幼少期を送り、着るものも配給切符で支給された時代、それもほとんど姉のお下がりで過ごした。それでも、十二歳の頃から廃物直前の古い洋服を利用しては、スカートやブラウスを縫っていたという。そしていつか、プリンセスのためのドレスを縫いたいと夢見ていた。のちにクリスチャン・ディオールのアトリエで働くようになって、マーガレット王女のドレスを縫い、それが実現した時に一番驚いたのは自分だった、とアメリーさん。(中略)着物はパリでも、ファッションショーを見に来る艶やかな日本女性の姿を見ていた。でも初めて来日した時に、赤ちゃんを負ぶった和服の女性が街を歩いているのを見て、ああ、本当に日本人は着物で生活しているんだと感慨があったという。着物地の布を最大限生かそうとする時に最適なデザインの一つが、パキスタンのパンジャビスーツだという。深いサイドスリットが入った着物地の長めのパンツスーツは、エレガントさと着易さを兼ね備えていて、とても重宝するとアメリーさんのお気に入りである。古着物の魅力は、まず生地の紋様と手触りだった。今までオートクチュールでたくさんの高級シルクを扱ってきたが、日本の着物は独特だった。着物の奥に、多分今は亡き織った人、染めた人、刺しゅうした人などたくさんの作り手たちの姿が隠れており、そのミステリアスな部分にも惹かれた。「ヨーロッパの洋服はフォルムが大事とされます。そこで色とのアンサンブルで見せようとしますが、日本の着物は形が決まっているので、紋様が重要となりますね。私が美しいと感じた紋様はパッチワークの作品でも細かく切らないで、それを活かすことを考えます」 長年忙しく洋服を作ってきた。でも自分の人生に一体何が残ったのか。自分のために何かを残したい。そんな思いから始めたのがパッチワークキルトだった。 ―本文より一部抜粋― キルトジャパン2005年5月号より
  • 夏面(リバーシブルキルト)2001年制作 240×210cm
    赤系の色合いで、暑い夏をイメージしたキルトは大胆なシンメトリーのデザイン。長襦袢や羽織などの着物からリメイクし、梅柄の着物地を使用。林家では、ベッドカバーやソファー掛けにしたりと、部屋のインテリアにもなっている。
  • 扇子のリバーシブルキルト。前面は扇子、後面はログキャビンのパターンが使われている。扇子の部分はほとんどが着物地、その周りは白のコットン、ブロックとブロックの間は黒のグログラン・リボンで区切ってある。夏用のベッドカバーとして作られたものだ。
  • 屋根裏部屋で着物を見ながら、デザインを考えている時が一番幸せを感じる。アメリーさん着用のパンジャビスーツはもちろんお手製だ。装いに合わせたネックレスは、アジア旅行で買い求めたビーズをきれいに洗って、作り直したものだ。
  • 和紙に貼った残り布のスクラップ。最後の最後まで布を大切に扱う、アメリーさんの優しさが満ち溢れている。これまでに着物地をリメイクして、甦らせた作品は数え切れないほどたくさんある。

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