矢沢順子さん

矢沢順子さん グラフィックデザイナーを経て、1978年~1995年まで野原チャック氏に師事。1989年~1994年ま産経学園自由が丘教室講師。1994年教室兼ショップ「スノードロップ」設立。1997年~2001年アメリカIQAキルトショー、AQSキルトショーに6回出展。1999年のIQSではミクスドメディア部門で第1位受賞。2000年「アメリカンキルトカレンダー」(USA)の表紙に作品が採用される。同年6月第1回スノードロップ作品展開催。
「キルトシャパン」などのパッチワークキルト専門誌、単行本への作品提供多数。教室において行進の育成に力を注いでいる。

矢沢さんは美大でグラフィックデザインを学び、デザイナーとして仕事をしていた経歴を持つ。デザイナーの仕事は楽しく、ずっと続けたかったが、結婚・出産のため泣く泣く辞めた。その後デザイナーとしての復帰は難しいと感じ、何か自分の経験やセンスを生かせるものはないかと思っていた時に、雑誌でパッチワークなるものを知り、見よう見まねで作り始めた。当時はまだキルト芯も手に入らず、古いシーツなどで代用していた時代である。「ちょうどその頃、友人から立川のチャックスパッチワークスクールに行こうと誘われました。近所にいた妹に赤ちゃんを預けて通い始めると、もう楽しくて楽しくて、すっかりのめり込んでしまいました。結局その友人は1年ほどで辞めてしまい、私はいまだにやっているというわけです」と笑う。その後、育児で5,6年キルトから遠ざかったが、NHK文化センターの野原チャックさんのパッチワークスクールに3年間通い、チャックさんのマンションでの教室にも通うようになった。そこで2年ほど学んで、産経学園の講師を務めることになる。「野原チャック先生のそばで、身近に布選びや配色を学べたということは、本当に感謝しています。特に、先生の配色は天才的で、誰にもまねできないものですね」講師を6年続けた頃、時間に余裕のない生活の中で、自分の作品を作りたいという欲求が日増しに強くなった。ある時車で街中を走っていると、ふと「貸し店舗」という看板が目に飛び込んできた。「その瞬間に、自分でキルト教室をやりたい!と思ったんですよね。そうなると私、やることが早くて、二か月後にはショップと教室を始めていました」 ショップは自分の欲しい布をそばに置きたいという気軽な考えで始めたが、何も知らない素人で、いろいろ考えながら手探りでやってきた。ただこだわったのは、この店らしい「自分の好きな布」を集めるということだった。自分しか選ばないような布を置きたいという思いが強く、その布すじが徐々に浸透して、今や遠方からも買いに来てくれるお客さんを迎えると、本当にうれしい。「始めた時、三日間くらいお客さんが来なくて、淋しさを紛らわせるのにずっと歌を歌っていたこともありましたね」そんな昔も、今になると懐かしい。 ─本文より一部抜粋─ キルトジャパン2004年11月号より
  • 『ブーケ』2004年制作 120×120cm
    2004年7月の作品展のために作った作品。60もの空想の花を丹念にアップリケしている。トップは1年以上前にでき上っていたが完成したのは作品展の直前。今までで一番時間がかかった作品だそう。
  • 『綾の煌き』2001年制作 195×195cm
    「和のキルト100人展」のために作った、初めての和布だけの作品。和布独特の深い色合いと美しい柄を生かせるようにと、円を基調にしたオリジナルパターンで構成した。
  • 矢沢さんがプロデュースした布「ワンスアポンナファブリック」を使ったポシェットとポーチ。
  • 上:『のこぎりの歯』1985年制作 112×112cm
    自宅2階に続く階段に踊り場に飾られたタペストリーは、20年前チャックスパッチワークスクールに復帰して最初に作ったもの。初めての大作とは思えない配色のセンスやキルティングの丁寧さは、今の作風を彷彿とさせる。
    左下:28年前に見よう見真似で作った三角つなぎの作品。手持ちの和ダンスに合わせ、ワンピースをはぎ合せて作った。キルト芯の代わりにシーツが入っているのは「中に何を入れるのか、知らなかった」から。86×43cm 右下:23~4年前に長男のために作ったリュックとお弁当袋。下の男の子も同じ物を使った。毎日使っていたとは思えないほど、とてもきれいな状態で保管してある。矢沢さんの几帳面な性格がうかがえる。